「8・9米国による広島長崎の原爆攻撃を忘れない関西反米集会」活動レポート

「8・9米国による広島長崎の原爆攻撃を忘れない関西反米集会」に参加させて頂きました。


あの忌まわしき大量破壊兵器を投下されて70年。


1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分(※米軍側資料などにより落下時間を含む午前8時16分という説あり)に広島市ウラニウム原子爆弾リトルボーイ」が米軍爆撃機B29「エノラ・ゲイ」によって投下されました。


その3日後の1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分(※米軍側記録では午前10時58分)に長崎市プルトニウム原子爆弾「ファットマン」が米軍爆撃機B29「ボックスカー」によって投下されました。


当時0歳児だった方も、今年で70歳になられます。


70年という年月が経過しましたが、現在も多くの方々が広島と長崎への原爆投下による被爆で苦しんでいます。


原爆はピカドンと呼ばれますが、先ずは眩しい閃光を発します。


当時の人の話によると、閃光か眩しくて目を塞いだ手の骨が透けて見えたそうです。


閃光を受けた時に、肌に物凄い高熱を感じたと語られています。


閃光と共に巨大な火球が発生するのですが、その火球の温度は太陽の表面温度と同じ温度に達します。


そして、轟音と共に爆風が発生します。


高温の爆風なので、建物を発火させてなぎ倒します。


この閃光と爆風でピカドンと呼ばれるのです。


あの災禍から70年経過して、被爆体験をされた方々も高齢になっています。


一瞬にして数多くの方々の生命を奪う恐ろしいホロコースト(大量虐殺)が、年月を重ねる度に風化してしまうことを私は憂い悲しむものであります。


あのような、恐ろしい大量破壊兵器を頭上に落とされた怒りを日本人は忘れてしまっているのではないでしょうか。


人道に対する罪であり、全人類に対する罪を米国は犯したのであります。


米国は未だに広島と長崎への原爆投下という大量虐殺を謝罪すらしておりません。


このような【過ち】を犯したのは紛れもない米国そのものであります。


数多くの方々の尊い命を一瞬にして奪い、現在も数多くの被爆者の方々を苦しめている原爆投下という米国の【過ち】に対して、謝罪せよと訴える主旨に賛同し、一人の民草として「8・9米国による広島長崎の原爆攻撃を忘れない関西反米集会」に参加させて頂きました。


長崎への原爆投下という大量虐殺が行われた70年目の8月9日は、とても暑くて夏の日差しが照りつける一日でした。


しかしながら、夏の暑さと日差しをも、跳ねかえし、米国による広島と長崎への原爆投下という非人道的行為に対する、参加者の皆様による【怒り】の訴えに多くのことを学びました。


この【怒り】を忘れてはならないと、強く己の肝に銘じるものであります。


広島と長崎の原爆攻撃の受難に遭われ、尊い命を失った数多くの御霊のご静安を祈ります。


そして、現在も原爆症により苦しんでいる数多くの被爆者の方々に心よりお見舞い申し上げます。


個人的な想いを書き連ねた内容で、大変恐縮でありますが、これをもちまして「8・9米国による広島長崎の原爆攻撃を忘れない関西反米集会」の活動レポートとさせて頂きます。


主催者、参加者の皆様、暑い中お疲れ様でございました。


木島伸一拝


画像①:日東公園にて、米国の無差別大虐殺に対して謝罪を訴える横断幕。


画像②:日東公園にて。統一戦線義勇軍関西管区の緑旗と民族の意志同盟の団体旗。旗を携えているのは統一戦線義勇軍関西管区の男前。宮本さん。


画像③:デモの様子。


画像④:なんば高島屋前街宣にて。統一戦線義勇軍関西管区の緑旗と日章旗


画像⑤:なんば高島屋前街宣にて。統一戦線義勇軍関西管区の幟。



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