226特別投稿 『日本会議の問題点』

日本国憲法は改正、改憲できる。


第九十六条
この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。


このルールを遵守して改正、改憲することが国民にとっても納得のできる政治と言えると想う。


わしも日本国憲法については異議があり、民族自立と自主独立に則った自主憲法を制定すべしという考えだが、日本国憲法に先帝陛下の御名御璽が捺されている。


つまり、日本国憲法大日本帝国憲法の改正憲法である。


敗戦後、御自身が自分が死刑になろうが皇室がどうなろうが覚悟の上で、国民の生命財産を守るために先帝陛下は御名御璽を捺されたのだ。


立憲君主であった先帝陛下の御名御璽が捺された日本国憲法を「無効」という二文字で否定して良いのか。


わしはそうは想っていない。


まして、先帝陛下に御名御璽を捺させてしまったという責任を放棄してはならないと自分は想う。


現行のルールを遵守して国民の支持を得て、3分の2以上の賛成をもって憲法改正改憲手続きをすることにより改憲すべきだとわしは想う。


日本会議は、事もあろうに3分の2以上の改正ルールを2分の1以上に改悪して憲法改正を実現しようという案を自民党にやらせようとしている。


やめておけ!


そんなことをやれば、時の政権が交代する度に憲法がころころ変わってしまう。
法的安定性は重要ではないと思っている保守が大半だと思うが、そういうことではいけないんだ。


なかなか日本国憲法憲法9条はしぶとい。


しかし、議会制民主主義というものは多数決の横暴ではなく、少数派の意見も聞いて、出来るだけ全会一致に近い形で政治を行いましょうということだ。


その議会制民主主義に基づいて、日本の統治の象徴である天皇陛下立憲君主として私達に議会を預けているのだ。


これを放棄するということは、政治家による政治の独占であり、民意の否定。


つまり立憲主義の否定である。


すなわちこれは、立憲君主である天皇陛下を冒涜する行為である。


憲法96条ルールは世界的にも常識から外れるようなものでない。


憲法9条は世界的にも常識から外れるものだと想うが、憲法96条の3文の2以上という政治手続きのルールは日本以外の国も採用している。


これをいじることは、政治を私物化して専制政治を行うようなものである。


だから、左派が首相官邸の前でファシスト安倍と叫んでいるのだ。


日本会議がメインになって憲法96条を改悪しようと画策したが、右にも左にも反対されて座礁してしまった


そこで出てきたのが安保関連法制、つまり安保法制である。


法解釈論による集団的自衛権規制緩和である。


政治で最も重要なのは、その手続の正当性ではないのか。


その結果、もはや死に体の日米安保憲法9条に生命維持装置をつけて延命させたのが安保関連法制である。


安保法制は9条護憲であり、安法体制・・・つまり新YP体制による日本再統治の完成であったのではないか。


法解釈論というのは、政治手続きの正当性を確保するものではないのだ。


憲法を改正、改憲をせねばならんという方向性は同じだ。


しかし、自分は日本会議や安倍政権による手法には賛成出来ない。


仮の話になるが、例えば左派政党が2分の1以上の議席を獲得して、自衛隊を廃止するような法解釈論で日本国憲法を更に最悪な憲法にしたら・・・また、また振り出しに戻ることになる。


原発の問題も同じだ。


喉元過ぎれば熱さを忘れるという言葉があるが、安全性を確保せず原発を再稼働するとはどういうことか?


重要免震棟の新設を断念して、別の安全対策でカバーすると言うが・・・新基準と原子力規制員会の審査はそういう詭弁を許すものだったのか?


違ったはずではないか?


想定外という言い訳は、もはや通用しない。


利益至上主義で事を進めようとする魂胆がはっきりと見える。


それが福島原発事故の原因だったはずだ。


東日本大震災の様な大規模災害はもう起きないと踏んでいるのか。
甘い。


砂糖菓子の甘く、綿菓子のように軽く、消えてしまう泡沫の営利や利益に魂を売って、国土で


生活を営んでいる私達の生命を守らない。


そういうのを愛国者と呼ばない。


売国奴というのだ。


きつい言い方になるが、そう呼ばれても言い訳は立つまい。


法的安定性も同じで、96条ルールを破棄する事は立憲君主を否定することだ。


96をひっくり返して読んでみよ。


69・・・つまり、ロック・・鍵なのだ。


96条に定められている憲法改正ルールを遵守し、正統な手続きによって憲法改正改憲することが何故重要ではないのか?


セーフティロック(安全装置)をしっかりとかけるということである。


セーフティロックのついていない銃は如何に強力でも欠陥品だ。


その銃は暴発して、己の生命を奪うことになるだろう。


日本会議自民党に限ったことでもないのだ。


左派政党や護憲団体や似非人権団体も、憲法を私物化してはいけない。


96条ルールを破棄して、法的安定性を追求するには政敵を殲滅してしまうしかない。


つまりリベサヨを弾圧するしかなくなってしまう。


それが怖いから、ファシスト安倍と首相官邸に抗議する人が後を絶たないのだ。


政敵やリベサヨを殲滅することを素晴らしいと想っているのか?


それならば、それでも良いだろう。


しかし、わしは専制政治一党独裁も否定する立場だ。


リベラル右翼・・・つまりリベウヨとして、右翼リベラリズムを主張するわしの思想はそこにはない。


意見の違う人達や政敵とも議会を尽くして、少数意見も聞いたうえで、出来るだけ多くの人達が憲法による恩恵を得る形で自主憲法を制定できれば良いと考えている。


近道も簡単な方法もないのだ。


国民、ひとり、ひとりの理解と支持と信頼を確実に得ることだ。


それが力になる。


それが日本を強くする。


最後に。


議会制民主主義の話をしたが、民主主義とは政治に誤りがあったときに国民が政治を糺すことだ。


政治の誤りや、堕落を、国民が糺せなくなったときに民主主義は死ぬ。


そのことをリベラルデモクラシックパーティを名乗る自民党安倍政権には努々忘れないように願う。



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