『再燃する神道の戦後総括に対する違和感』

最近、神道関連に関する戦後総括思しき記事がチラホラと見かける。

靖国神社護国神社についても様々な意見があることは承知しているし、神仏分離令から廃仏毀釈運動の流れに負の側面があったことは否めないだろう。

現行においても、神道政治連盟や神社協会に問題が無いとは言えないと思う。

神道は政治を超えた普遍的な価値観を体現するものであって然るべきだろう。

しかし、日本全国に存在する天皇陵、神社、神宮、氏神様が24時間、誰でも参拝できるということは、何事にも代えがたい尊いものであることも事実である。

四国八十八箇所霊場と同じく、多くの人々の苦しみを救う神の投網であるのだ。

神仏分離令国家神道と呼ばれる神道への政治介入による弊害は反省せねばならない点もあるが、されども、戦後、瞬く間に神仏習合に戻り、明治以前の神道信仰が復活したのを鑑みると、実は神社、神職、大衆に至るまで大多数は、あるべき神道を信仰していたということが事実ではないだろうか。

また、国家神道の名残として批判される靖国神社護国神社には戦没者遺族が参拝しており、追悼の場にもなっていることを考慮せねばならない。

死者の魂を追悼をする行為を咎める必要はないだろう。
私自身、護国神社には自発的に参拝し、東京に行った時は靖国神社を参拝する。

私の血縁者に戦没者が居ることもあるし、私は靖国神社護国神社において国内の戦没者のみならず、国外において、戦争の受難によって尊い命を失った無辜の人々の魂や、動物たちの魂にも追悼の祈りを捧げている。

私の心中に国家神道なるものは存在しない。

英霊、祖父たちに会いに行く。

戦争でなくなった方々や動物他の霊に追悼の祈りを捧げるのみである。

そして、その尊い生命があって、私が生かされていることを感謝し、国家の安寧と世界の平和を願う。

これを、誰が咎められようか。

私が自分の信仰を他人に強要した場合、咎められ、批判されて当然であろう。

しかし、自己完結の内心を咎められる覚えはない。

当然、参拝しない自由も私は尊重する。

それで良いではないか。

反天連、反靖国運動というものがあるが、参拝しない自由、尊崇しない自由を認めるから、我々の参拝する自由、尊崇する自由を認めるべきだと申し上げたい。

以前も書いたが、廃仏毀釈運動というものは、神仏分離令とは別に、一部の神職と大衆が起こした破壊行為という側面もあるのではないか。

神仏分離令が発布されても、御寺が廃止されたわけではなかったのだから。

また、戦没者追悼施設として、靖国神社護国神社があって、そこに魂が祀られていることも、時代背景によるものであり、それを、現在の価値観で否定しても意味は無いだろう。

靖国で会おうという、祖父たちの約束を私は反故には出来ないのだ。

国家や政治が神道や信仰に介入した不幸はあったが、人々の内心には本来あるべき姿の神道は生きていたのだろう。

だからこそ、自然に神仏習合が復活したのではないか。

これより後、神道に国家権力や政治権力が介入することはあってはならないし、私も反対の立場である。

また、私自身も神道や信仰を他人に強要しない。

故に、愛国心教育についても、私は反対の立場である。

仁徳天皇陵をはじめとする、天皇陵のユネスコ世界文化遺産登録にも断固反対する。

天皇陵を観光財源として利用し、見世物にするような事は、何よりも酷い行為ではないだろうか。

神道政治連盟自民党なるものが、天皇陵のユネスコ世界文化遺産登録に反対すらせず、あろうことか、超党派議員連盟を結成するという顛末。

彼らに私の信仰を強要しようとは思わないし、理解すら出来ないと思うが、票や金を得るために天皇陵を利用する行為は耐え難き悲しみである。

私達の内心を傷つけるような行為は辞めて頂きたいと願う。

話をまとめるが、明治以降、国家権力や政治権力が神道に介入したことによって、悲しい出来事もあったが、大衆の心の中には本来あるべき神道が生きていた。

同じく、靖国神社護国神社も、時間が経つに連れ、普通の神社として認知されていくだろう。

神道政治連盟神社本庁については、信仰を強要しない限りにおいて、信仰の自由と内心の自由は認められるべきである。

その代わり、参拝しない自由、信仰しない自由(信仰選択の自由)も尊重するべきだろう。

神道の戦後総括のような言論に違和感があったので、私なりの見解を書きの述べさせて頂いた。

こういう考えもあるということで、ご理解願いたい。



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