保守と人権

現行の保守層には、決定的に人権意識が欠落しています。


人権問題を語るには、人権とは何かをもっと考えないといけません。


天賦人権論、基本的人権の尊重。


ここを徹底的に勉強しないと、メディア批判すらも片手落ちになります。


例えば、マスコミに名誉毀損をされたとして、名誉毀損でマスコミを訴えることが出来るのも人権という価値概念があるからです。


皆保険制度(国民健康保険等)や社会保障制度(年金給付、生活保護)は、基本的人権の尊重に基づく概念から生まれたものです。


勿論、人権や善意を盾にして権利を濫用するようなこともいけないことですが、だからといって人権というものを軽く考えてはいけません。


人権というものが、あたかも少数派や弱者の特権のように誤解されがちですが、社会的地位がある人も、そうではない人も、人権という価値概念によって様々な恩恵を受けているという立場であることを認識しなければいけません。


お互いを人間として尊重し合い、共に支えあっているという基本的な概念を疎かにしてはいけません。


義務というものも、前提に人権という価値概念があるということです。


教育、納税、労働の義務もお互いを人間として尊重する人権という基本概念の上で成り立つものであり、義務が人権を否定するものでもなく、人権が義務を否定するものでもなく、両者は両輪であります。


日本には兵役の義務はありませんが・・・私は自衛隊の末席として、たったの3年という短い任期ではありますが、国防の任に就いたこともあります。


自衛官社会保障制度の恩恵を受けていますし、自衛隊には医療機関もあります。


安全保障と社会保障は国家の両輪です。


言い換えれば、義務と人権も国家の両輪です。


武器とメディカルセットも両輪です。


武装を語るならば、携帯の医療キットも語らねばいけませんよね。


戦前の日本に人権という価値概念が無かったかというと・・・そうではないのです。


自由民権運動においては、言論の自由や集会の自由の保障が主張されました。


自由民権運動というものも、決してヒューニズムで語れるものではなくタカ派的な面もあります。


故に、保守と人権という概念は本来は相反するものではないはずなのです。


現在、同和利権問題という人権を盾にした権利濫用の問題がありますが・・・元々は全国水平社という君民一如・尊皇愛国の団体から起きた差別撤廃運動だったのです。


人権という価値概念を如何に考えて政治というものを正しい方向にしていくか。


権利を保障することも大切ですし、権利の不正な濫用も抑止しなければいけません。


ヘイトスピーチという差別扇動発言は卑劣な差別です。


それを如何に規制をするのが望ましいか?


現行法で対応しつつ自主規制を推進するべきか?


法の下に規制するか?


言論表現の自由とは何か?


言論表現の自由を国家が規制することが正しいことなのか?


国家権力が言論表現を規制することによる権力濫用の可能性はないか?


私は、ヘイトスピーチには現行法で対応しつつ自主的に規制するべきだと思います。


ヘイトスピーチは、たった今すぐに辞めることが出来るのですから。


出自属性で人間を差別することが愛国心ではありません。


国を愛することは、人を愛すること。


人を愛することは、自分を愛することです。


出自や属性は本人の努力ではどうすることも出来ません。


しかし、ヘイトスピーチや差別は何時でも辞めることが出来るはずです。


日本を執拗に貶める外国(米国や近隣国など)の統治機構に対して、正統なる言論をもって批判することは大いに結構だと思います。


それは、ヘイトスピーチでも差別でもありません。


人権を盾にした、権利の濫用も批判するべきです。


しかし、外国人やマイノリティや社会的弱者を一括りにしてレッテル貼りをしたり、憎悪や差別を扇動するのはいけません。


外国人やマイノリティや社会的弱者が、聖人君子というわけでもありません。


彼らの中に悪い事をする人もいるでしょう。


しかし、それは個人の堕落であり、個人の行為を批判するべきです。


個人の堕落は個人の堕落であり、個人の心の在り方が原因です。


出自属性が原因ではないのです。


そのことを深く考える必要があると想います。




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